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カテゴリ:★読書系セレクション【終】

  • 新田次郎著 アラスカ物語
    [ 2010-07-02 20:27 ]
  • 熊谷達也 いつかX橋で
    [ 2010-06-04 11:47 ]
  • 高村薫著 レディ・ジョーカー
    [ 2010-05-28 19:17 ]
  • 阿川弘之 春の城
    [ 2010-05-17 21:39 ]
  • 熊谷達也 氷結の森
    [ 2010-04-21 06:54 ]
  • 福永武彦 死の島 (その3)
    [ 2010-03-10 10:51 ]
  • 福永武彦 死の島(上・下)  その2
    [ 2010-03-07 22:32 ]
  • 池澤夏樹 カデナ
    [ 2010-02-19 21:37 ]
  • 吉川英治著 宮本武蔵
    [ 2010-02-11 13:08 ]
  • 島尾敏雄 死の棘 (その二)
    [ 2010-01-17 11:19 ]
書きとめておきたい本は、山のようにあるのですが、なかなか整理がつかない。

近ごろ、それって自分の人生の整理もつかないってことなのでは、と思ってみたりします。

何を書いても遺書のようになってしまうなあ、と泣き言ばかりを言っていますが、死んだらこの本はみんな灰になるだろう。

私の遺言だけ新刊で出版できればいいか。

+++

新田次郎著 アラスカ物語

もう何年も昔のことで、私が受験生だった昭和50年ころまで遡るような気がする。当時は本を読むことに馴染みなどなかった。ひとりの高校生が単行本を持ち歩いたりカバンに文庫を忍ばせている風景は珍しかった。そういう奴は本の虫かガリ勉か、遊ぶことを知らないひ弱な奴の分類に入れられかねない、そういう時代だった。

なぜアラスカ物語だったのか、それは朧な記憶になるのだが、きっと誰かが単行本を贈り物としてくれたのではないか。そんな気がする。私を読書家と勘違いした親友がその1年前に遠藤周作の「どっこいショ」の単行本をプレゼントしてくれたということもあったし、「アラスカ物語」も何かの理由があってプレゼントされたか、それらの本に感化されて私自らが買ったのかもしれない。何れにしろ、私の読書人生のスタートラインのころの1冊であることは間違いない。

さらに、この本を読了して、受験期間を終了したころに、新田次郎作品では「火の島」を読み、さらに「栄光の岸壁」「槍ヶ岳開山」に出会い、私も山を旅する人へとなってゆく。出会いとはそれ程、偶然で簡単なものでもあろうし、また、それほど恐ろしく感動的でもある。

この作品の主人公であるフランク安田という人は、教科書ではおそらく習わない。だが、人物伝というものが人を育てるというならば、このような人の信念や考え、行ないを今の子どもたちにさり気なく教えてあげればいい。人の生涯描いた物語は新たな時代の人へと受け継がれ、また人を育てるのだろう。

新田次郎という人は、このような人の生きる美しさにこだわりを持っていたのではないか、と思う。それは山に懸けた登山家や冒険家の人生にも存在する。カッコよくないとか非合理的であるという理由で、現代人が御座なりにしている最たるものなのではないか。

新田次郎の小説と向き合う姿勢は、小説家への動機やその後の歩みを見てもよく分かる。彼をこれから読むという人は、まず、「火の島」を読み次に「アラスカ物語」へと進むと良い。彼の真正面からの顔が見えてくるのを感じるだろう。
2010年06月04日

出版社とは勝手なもので、これを青春小説と紹介していた。
確かにそうなのかもしれないが。

この物語は、戦争が終わる直前、7月の仙台空襲から始まってその後の2年ほどの間の時代を生きた二人の男と一人の女の物語だ。

今は既に、戦争経験者は殆ど無い時代だ。豊かな時代に生まれて、何を今更、そんな文学にさえも興味を示さねばならぬか。そんな潜在的な人があふれる中、熊谷達也は、どんな気持ちでこの作品を書き出したのだろうか。

森シリーズのイメージが強い作家だけに、読者としてはハズレは読みたくないという思いもあるもの、熊谷氏が彼の独自の作法で綴ってくれる、幾分荒っぽい筆と、吟味された優しい筆がミックスした物語を読みたくなるのです。ときどき。

あの独特の優しい視線で、魅力的にまとめてくれる女性が登場し、愚直に生きようとする男がいて、その者たちをひきたてる荒っぽい男がいる。(そう、女性が途轍もなく可愛らしく綺麗で魅力的なのだ、いつもながら。)

熊谷氏の生き方のどこかに潜んでいる彼の哲学のようなものと、小説への情熱をブレンドするとこんな物語が出来上がるのだろう。

物語の流れも終結も残酷である。誰もが望むハッピーなど無い。しかし、そうでなければこの時代は成り立たないのだという、当然の摂理を捻じ曲げることなく、読後にこれほどまでの満足感を与えてくれたのだから、私はとても満足している。

ただ、読後(直後)が深夜だっただけに、眠れなくなってしまって困った。眠れない夜などもう30年も昔から1度も無かったのに。でも、許せる感動だったかな。

---

阿川弘之のレビューを少し前に書いたばかりで、彼の作品は紛れもない戦中文学だ。そのイメージと少し似かよった始まりなのだが、本質的にはまったく違う。宮本輝も松坂熊吾の生きた戦中を書くが、これともまた違う。

人間模様は、重松清を連想させるところもあるが、そんなに滑らかで美しいものでもない。やはり、熊谷達也の作風だと思う。

ドラマを上手に作るTV局で、4回連続くらいの真剣なドラマにしてくれたら、見てみたいような気がする。

熊谷達也の頭の中には、そんなお洒落なところもあるような気がする。
(はじめに)

うーん、と唸ってしまう。
何故、高村薫がこれほどまでに人気があって、★が平均して4個以上というのは、今の活字離れの時勢にあって、まことに不思議だ。

私のように偏屈、変人といわれる人が熱中するなら理解も出来るが。

いずれにしろ、軽薄、短小、いい加減、人気伺い、金儲け、売れ筋迎合、ベストセラーミーハー人気などなどと(私が)言っている本屋のワゴンの中にあって、この作品は光り輝いている。

*

照柿
マークスの山

と続いて読んできたのだが
少し、異色を感じた面もありながら、
確かに、高村薫を女性と思っていなかったというひとが多くいるだけある。
そういう色合いがある筆が濃く出ていた。

でも
どれをとっても
素晴らしい作品ばかりだ。

--

マークスの山は直木賞作品で、内容を見てもかなり分かりやすい。

レディ・ジョーカーは、壮絶で予想さえも出来ないタイトルからして、「よし、高村薫を読むぞ」、ぐらいの気合がいるのかもしれない。



(では、感想を)

合田と加納という用意された二人の人物に、自分の内面を内面から見つめさせたり、あるいは客観的に静観させたりさせる。さらに、静観ではなく激しく批判的にも見ることもあったかもしれない。二人の違った視点を絡め合わせることもある。

人間である以上、誰もが持ち合わせている自省観念を、多角的な視点で扱いながら、練り上げた物語を現実味の帯びたドラマへと仕立て上げてゆく。

次のページが重苦しく厚い壁のように見えることもある。しかし、読者は遅々として進まないドラマの次を待っている。些細な展開の中に散りばめられた日常的な変化も見逃してはいけないし、その心理も御座なりにできない。

美文でもないし、報道記事風でもない。やはり、小説なのだと思う。これが、朝日や読売新聞社社会部のドキュメント記事のように綴られていたら面白いかというと、決してそうでもないだろう。

どんなキャラが好きか、嫌いか。ある方にそう問われたことがある。考えたこともなかったというのが正直なところで、私という者が人一倍に好き嫌いの感情がはっきりしている人間でありながらも、冷静で淡々と成り行きを見守っていることに改めて気づかされた感じだ。

感動を伴わないわけではないし、好き嫌いも無くはないが、そういうものは本質とは関係なく、男と女の間でいうならば許し合える程度のものかもしれない。それよりも、登場人物たちのそれぞれが自省と対話をする姿や心の叫びを、あたかも自分のことのように読み耽るとき、好きとか嫌いという観念が引き潮のように見えてなくなり、物語の中を流れる冷静で眩しいスポット光源が私の心に差し込んでくるのを感じる。

高村薫の小説作法が、先にも書いたが、美文でもなく、また分かりよいものだと言えるようなものでないだけに、この作家の人気の理由は、この泥泥として汗臭いような小説自体にあるのではないだろうか。松本清張が新しい推理小説を開拓したというなら、高村薫は再びジャンルを超えた社会派といえる。

残念ながら私は、商法や企業法、物権、債権などには縁の無い日常でして、この物語のひとつのポイントを読み解いてゆくのは難しい。法学や経営学の知識がもう少しあればと思うものの、一般社会で暮らすには実際には不自由もしないので、この小説レベルの話はお茶の間ドラマを見る感覚でサラリと流させてもらった。

しかしながらそういうことを片目で見ながら、高村薫がさり気なく読者に投げかける社会悪や不条理への感情は、少し物語から脱線しながら作者自身の新聞論説なども思い浮かべて考察したくなってくる。(これはこの本の感想では無いので省略)

高村薫という人は、ルポライターでない分、小説がルポっぽくない。詩人で無いから詩的でない。少しドタバタでギクシャクなところがあったが、これだけの長編ならば大きく差し引いて、読者の読書観を捻じ曲げてしまいかねないほどの刺激的な作品だになっている。

合田警部補(のちに警部)の、弱弱しい面と知的な面と不良でヤクザな面が、素晴らしくミックスされて、程よい加減だ。人物を取り上げると、どの人も味が出ている事に気がつく。これは高村薫の普段からの人間洞察力としか言いようがなかろう。

東電OL殺人事件」のような作品をこの人に書いてもらえたら、私は痺れて動けなくなるだろうな。
阿川弘之という人は、私が戦中文学というものに興味を持つきっかけになった人かもしれない。原民喜や島尾敏雄 、梅崎春生とともに、どっぷりと毎日、浸るように読み耽った。

ある意味で、このように読み耽ることが必要で、私にしたら戦争は仮想の時代なのだが、そこへと招き入れられて、彼らと同じように青春を過ごしてみるということは、大切なことであったのだと思う。

戦争は異常な時間であった訳ですが、そのドキュメントに似た体験は、幾年の時代が過ぎても必須のことで、どれほど今の時代の人が幸せで何不自由なく暮らしていたとしても、せめてこのような文学で対面しておいてもいいと思う。

阿川弘之は、ある意味ではエリートで、私たちとは別世界の人であったのであろうと思いながらも、その戦争時代の体験はあまりにも悲惨で悲しすぎるので、多様の反発は感じながらも、貧しかったその時代を私に教えてくれたことに感謝する。

小説とは、とにかく、きちんと作文が出来ていることが大事で、その綴り方の中で読者を動かす。阿川弘之の文体は小説の原点にも戻るようなもので、常にクールであった。小説とはこういうのを言うのだと教えてくれた一冊でもあった。
相剋の森、邂逅の森と続く三部作として知られている氷結の森の面白さは、樺太からソ連へと主人公を流離わせて、しかも史実の中に物語を晒しながら、熊谷達也の荒々しい筆が人々のドラマとして纏め上げているところだと思う。主人公は北へ北へと逃げ延びてゆく。逃げるという言葉は相応しくないかもしれないが、行く果てに事件が待っている。

熊谷達也は「森」をタイトルに入れて描く三部作として、その「森」をどこまで意識し頭の中で熟成したのだろうか。それは、林であるとか海であるとか、はたまた山であるとかいうものでは許されなかった。森でなくてはならなかった。

そうして森を考える始めると、それはだだっ広い大地や閑散とした林ではなく人々が物理的にも精神的にも絡み合い侵し合い傷つけ合い、ときには助け合い励ましあうような人間関係の中に潜む人々の野性味を森の中に埋め込む必要があったのだ。そしてその中で、ときには激しく熱情的でありながらも冷静な視線で物語を描いてゆく。

作者自身が深い森に彷徨い入るときにこそ、このような作品は完成することができるのではないか。そういう意味では、三部作はこれで完結しなければならないし、新しく始めるためには今ここで完結しておき、新たなステージで洗練された作法を得て築かれてゆくのだろう。

ニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)事件を参考にして物語は構想された。後半は少し色合いが変わって、いかにもスケールの大きな劇映画を見るようだった。しかし、おそらく物語は史実とは一切関係ないもので、事実と言えば樺太とソ連の厳しい寒さやその街の情景と、出来事を引っ張り歩く大きな事件だけが事実なのだろうと思う。

相変わらず、自然を見つめる眼が途轍もなく優しく、人を容赦なく切り捨ててゆく筆は厳しい。前作などに見られるような物語の中盤での緊張の途切れもなく、安定して読み通せるいい作品だったと思う。
その3

さまざまな感想があるようですが、それらを読んで、文学者というのはオモシロイ人たちだな、という感想のほうが先に出てきてしまいます。いきなり失礼なことを書き出して、文学(ブンガク)のご専門の方々を不愉快にさせてしまったかもしれません。

まったくの文学は専門外で、社会人になってからも悲しきかな三角関数や代数幾何学、微分積分とか、こういう無機質なものとお付き合いをしていながら、小説とか文学作品に遊んでもらって暮らしてきました。

だから、ブンガクのみなさんが、ブンガク作品を、また熱烈な読書家の方(や可哀想に読書中毒になった方々も)、作品のことをやいやいと理屈付けておられるのを読むたびに、一般的表現で言うと「引いて」しまうわけです。

これらの遠因は、高い教養レベルを実現し多くの知的文化人を育成しようとする現代教育の賜物なのでしょうか、ブンガクとか読後感想をひとつの囲いに包んでしまって近づきがたいものにしてしまった感もあります。

もしかしたら、福永武彦が読者に投げつけたかったものは、そういう一面性をもった読者たちへ向けたものでもあったのかもしれませんが、私は言葉の遊びの感覚を少し発展して変形させくらいに捉えて、誰にも読まれないかもしれない詩集を福永武彦がひとりで長篇に編み上げ直しただけのようにも思えてきて、これは彼の自己満足の集大成なのではないか、とさえ思うのです。

しかしながら、作品としては、誰もが★五つも進呈するほどのものにふさわしく、どの数行であっても読者を魅了する。いや、私は魅了されたのではなく、一種の催眠術にかかったように取り付かれてしまうのでした。他のどんな作家にもない不思議な力で、惹かれ過ぎて疲れると池澤夏樹のカデナを読んでいたり、宮本輝をぱらぱらと見ていたりするのです。別に死の島なんて最後まで読まなくてもええわと思いながらも、何ヶ月も掛かって読み終わってしまったわけです。

良質のフルコース料理を戴いているような感動。これはこの作品を読んで共感できる人にしかわからないものでしょう。絶版になってしまっているのは、単に読者が減っているというだけのものでもないと思いますが、TVでいうなら視聴率狙いのようなばかげた作品を賛美する時代だからこそ、こういうバランスの取れた、作品をまだ知らない人にささげたい。
その1に続いて

感想文は書きかけなので、レビューとしては、またいつかまとめますが、ひとまずメモ程度に。

*

福永武彦は、1979年8月13日に亡くなっている。私はこの「死の島」の文庫(上巻360円、下巻320円)を買ったのが12月6日と裏表紙にメモ書きしいていることから、もしかしたら彼の死のニュースを聞いて頭の片隅にそのことを置きながら年末に買ったのかもしれない。煙草一箱100円の時代だから、300円は安くはなかった。

キリスト教の作家や戦後文学といわれる作家を読み漁っていた時代だった。どのような順番で福永武彦に到達したのかわからないが、忘却の河を読んで草の花を読んで、それから死の島に辿り着いたのだと思う。

このときはまだ22歳になったばかりで、学生時代の有頂天の真っ盛りであった。この後24歳まで学生時代を過ごすのだが、果たしてそんな青春の真っ盛りに、福永武彦が読者の人生を変えてしまうほどの威力をつぎ込んで書いたのかもしれないこの作品に、私はどれほど刺激を受けていったのだろうか。

文学とはまったく関連のない学部であったので、読後の感想であるとか福永武彦論を述べる必要はなく、お気楽に文学を読んでいるのだという自己満足に浸っていたのだろうか。

今となってはどのように感じながら読み進んだのかは不明であるが、彼の書く小説作法には相当に影響を受けたことは間違いなく、忘却の河の感想を書いた時点でも、もう一つの自分が居るのではないかというほどに考えさせられているのが伝わってくる。

30年以上のブランクで再び「死の島」を読む。現代の本屋にこんな本を高く積み上げても誰も買わないだろう。大きな影響を受けたともいわれる村上春樹の小説を、巧妙な魔術のようなコピーと煽りでベストセラーに持ち上げても、福永武彦はそう簡単には売れないのかもしれない。今の読書人の持ち合わせている、インスタント食品でも美味けりゃ上等だというような感覚に似た、また、美味いか不味いかわからないけどみんなが美味いといってるから、というような感覚の人たちに、福永武彦がわかってたまるか。

面白いと思えるはずがない。

絶版。

私は★を5つ付けます。
ほかの皆さんの真似をしたわけではありません。

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一部を引用します。
読書部にも書いたけど、また違った人の目にもとまるといいのになと思い、ここにも貼っておきます。

死の島。

(上・P268)
小説というものが己の内心の願望の現れであるかのように、まるで祈りのように、己はその架空の世界に、かくありたいという己の夢をありったけ託して、それによって己自身の不安からも逃れていたのだ。


(下・P124)
もしも時間というものが或る一つの点から別の点へと流れて行く流れであるとするならば、初めと終りとは必ずあるだろう。しかしわたしにとって時間というものは或る一つの平面の上を繰り返してじぐざぐに動いている線にすぎず、或いはまた限られた空間の中をぐるぐるまわっている曲線にすぎず、それらの線の動きの間には幾度も初めがあったし、終りもまた幾度もあっただろう。わたしにとって初めと終りとは結局は同じものにすぎず、わたしは螺旋を描いて同じ地点を繰返し繰返し通り過ぎ、いつでも死を通り越して歩き、二度も三度もその同じ地点を通り、そうやって往ったり来たりすることでわたしの時間を所有してきたのだ。それがわたしの時間なのだ。

(下・P441)
人は眠りから目を覚まして、どういう夢をみていたかを思い出すが、しかし思い出さない夢もたくさんあるのだ。必ずしも全部が全部思い出されるとは限らないし、思い出したつもりでも、すぐまた忘れてしまう夢もある。とすれば大事なことは、夢を見ることではなく夢を思い出すことだ。単に見られつつある夢というのは幻影にすぎない。見た夢でなければならない、ということだ。夢はそれを見つつある現在に於て、あらゆる夾雑物を含む混沌としたアマルガムだ。それは僅かばかり砂金を含んで流れて行く河の水だ。問題は川の水に手を涵していることではなく、そこから砂金を採取することなのだ。

(下・P443)
それが小説を書くという行為ではないのだろうか。小説もまた、恰も我々の見た夢の破片を我々が思い出すことによって夢が成立するように、現実のさまざまの破片を思い出すことによって成立するのだ。思い出すということの中には、無意識の記憶もあるだろう、無意識の願望も含まれるだろう、もっと暗く混沌とした暗黒の意識も含まれるだろう。思い出すということは殆ど想像するということと同じだ、しかし小説によって、己の「小説」によって、死者は再び甦り、その現在を、その日常を、刻々と生きることが出来るだろう。己の書くものは死者を探し求める行為としての文学なのだ、いなそれは死そのものを行為化することなのだ……。
あらゆるところで
さまざまな書評が飛び交っています。

全然当てにならない、切って貼ったような感想。
それじゃ、カデナは語れない。

ごめん。
私も、たいした感想は書けない。

詩人の書く小説は好きだな。
親子、ともども。

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1968年という時代は今や確実に過去のものになっているし、多く人の心のなかには、もはや幾許の痕跡も残していないかも知れない。しかし、歴史が絶対に変化することはなく、そのあとに生まれた人たちは弛まなく成長を続けている。

カデナに存在した基地やそこから戦略爆撃機が飛び立っていったという事実は毅然と存在し、その歴史は止まったままだ。

この小説のバックグラウンドに流れる激しい歴史を振り返らずして物語の面白さも凄みも、小説としての味わいも深みも得ることはできない。


マルコムXが暗殺され、その3年後である1968年という時代にささやかに生き、登場人物たちは人を愛し、自分たちを愛した。そんな温かくも少し切ない物語だ。

作者の池澤夏樹と福永武彦は親子だ。ちょうど数ヶ月前からこの福永武彦の「死の島」に取っ掛かりきりでありながら、その親子という強烈な関係に引き込まれて、私は池澤夏樹を読み始めることにした。

この親子のそれぞれの放つ持ち味はまったく違うものの、底流にある共通のDNAをひしひしと感じながら、選択に誤りがまったくなかったことを確信したのでした
宮本武蔵は全部で8冊。
きれいな装丁。

真ん中へんで、武蔵が江戸に行ってしまったあたりは、物語自体が面白みを持たないので、少しテンポが落ちるものの、全体的に引き込まれっぱなしになることは間違いない。

一気読みのできる人は、お気をつけください。
眠れない夜をすごすことになります。


吉川英治著
宮本武蔵

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吉川英治という人のことを何度も自分の読後感想文の中に書いておきながら、その代表作である宮本武蔵についての感想に触れていないことに気がついた。

もうかれこれ十年ほど昔に毎日昼休みの僅かな時間に読み続けたのを思い出す。ほかにも寝床などで別の本を読むので、そちらが先にどんどんと読了してゆき、宮本武蔵は一年ほどかかって読了したのではなかったか。

司馬遼太郎と吉川英治を並べて見ると、司馬遼太郎は落語のように語り、吉川英治は講談を聞くように流れてゆく。

両者を比べることはまったく意味のないことだが、司馬遼太郎も宮本武蔵についての本を一冊書いていて、それは薄っぺらいもので、私はこの人物にはそれほど魅力を感じていないんだけど、みたいな構えで書かれていた印象がある。


吉川英治の宮本武蔵は八冊ある。司馬の竜馬がゆくに相当することになろうか。

面白さでは司馬遼太郎よりも面白いかもしれない。さすが戦前に多くの庶民までもが夢中になって読み、そのあらすじだけでも延々と語り継がれてきた物語だと思う。

吉川の文章を読み始めると、最初は面白くないと思う人が多いかもしれない。紋切り型で味がない。旨みも甘みもない。しかし、時を刻むリズムは一定で、場面の変化も安定している。面白さがじわりと出てくる作品が多いのもこのせいだろう。

長編が多いので今の時代には人気も然程ないかもしれないが、馬鹿げた売りとテンポだけを狙ったあらすじに毛を生やしたような作品が多い昨今、確かに次々と出版される面白そうな作品に目を奪われるものの、映画もテレビもない時代に書かれた吉川英治のような作品をじっくり読んでみるのは面白い。

余談だが、お正月に伊勢神宮に行ったときに、武蔵が伊勢へと来る一節を思い出す。猿田彦の前で立ち止まると感慨深いものがあるのだ。
そんな話はいくらでもあり、木曽路を旅すれば男滝、女滝の前に佇んでしまう。

武蔵という人物が、小説どおりの人間であったのかどうかは吉川英治に尋ねなければわからないが、歴史上の人物を小説の上で読むということにおいては、司馬遼太郎の「風神の門」「梟の城」、阿川弘之の「山本五十六」の素晴らしさでさえ、吉川英治の「宮本武蔵」を追い抜けなかった。やはりこれが一番かもしれない。
読書部Ⅱ にあげるにあたって追記。
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静かに本棚を眺めていると
学生時代に買って読んだ本が
静かに過去を語りかける。

1000冊以上は読んだなあ。
半分ほどは処分をしてしまったが
残念なこととをしたなと思う。

こうして表紙を眺めているだけで
この本を読んでいたころに立ち寄ったスーパーで
買ったものとかは鮮明の甦るのだ。

しかし、不思議にも記憶には季節感がない。


なるほど、この作品らしいかも知れない。


「棘」なんだけど
ほんとうの「棘」の意味まで
わかる人がこの世の中にどれだけいるのだろうか。

死の棘(その一)へ